シェムリアップを離れ、夜行バスでプノンペンへ。




なんかいろいろあってバスが6時間も遅れて到着したけれど、今となってはどうでもいいやww




ホステルで同じ部屋になった美男美女達とプノンペンの街巡りした!

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みんな背がたけえよー(;´д`)












次の日、ここへ来た目的でもある、トゥールスレン虐殺博物館とキリングフィールドへ。



【トゥールスレン虐殺博物館】

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ここは、1975年から1979年まで続いたポルポト政権時代につくられた極秘の強制収容所。


誰もが知る、ナチスドイツ軍による大量虐殺よりも恐ろしい虐殺が繰り広げられた場所。


12,000人〜20,000人のカンボジア人が収容され、現在確認された生存者はわずか12人。

一度入ったら二度と生きて出られない…。









わずか4年間でカンボジア全人口の3分の1が亡くなったといわれる、忌まわしきポル・ポト時代。


復習のために歴史を簡単にまとめておこう。











1975年、長く続いた内戦が終わりポルポトが政権を握った。



国民はこれでようやく平和が訪れると思ったが、それが悪夢のはじまりだった。



ポル・ポトはすぐさま都市プノンペンに住む人々を全員地方に追い出した。
政権を握ってからわずか3日でプノンペンから人がいなくなった。



そして、朝から晩まで、老若男女問わず農作業を強制。



共産主義である彼が目指した国は、完全なる自給自足の国だった。





そして、

「革命に学問や知識人は不要。知識があるもの、技術があるものは共産主義の邪魔になる」


という極端な思想をもつポル・ポトは、彼が率いるクメール・ルージュとともに次々に知識人とその家族を捕らえ、殺していった。


知識を持つ人とは、学校の先生、弁護士、政治家、職人、海外の留学生、ただ眼鏡をかけているだけの人もそう扱われた。


捕らえられた知識人は、極秘の強制収容所に収容され、数々の拷問を受け、ありもしない罪を認めさせられるのだ。






それがこの強制収容所、S21。のちにトゥールスレン強制収容所と呼ばれた。



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ここはもともと沢山の子供達が通う学校だった。



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外からは何も見えず、脱走もできない。





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拘束具。左の写真のように身動きがとれない。

糞尿は弾薬箱にするが、こぼしたら自分の舌でなめなければいけない。


床にはそこらじゅうに血の跡が残ってる。





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もともとは子供達の遊具のひとつだったが、ここでも酷い拷問をされていた。

上から吊るしあげられ、何度も鞭打ち。気を失えば糞尿が溜まった壺に顔を押し付け、気を取り戻したらまた鞭打ち。


このような拷問を、多いと1日3回もさせられた。







しかも、拷問係の多くが子供たち。社会に染まっていない知識のない子供を捕らえ拷問の教育をさせた。


その子供たちもほとんどが後に収容され殺された。





この他にもとても恐ろしく悲惨な写真が沢山あった。











そして、この収容所でありもしない罪を認めさせられたあと、トラックで運ばれる先は、プノンペンから離れたチュンエク村にある「キリングフィールド」

ここへ送られたら最後、処刑が執行される…。




【キリングフィールド】

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もともと何もない田舎だった。周辺住民があまりいなくて見つかりにくい所で処刑が行われていたのだ。

現在、中央には慰霊塔が建っている。




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当時、ここには大きな穴があった。
穴の前に目隠しされたまま座らせられ、後ろから頭を殴られ首を切られ、そのまま穴に落とされた。

いまでも人骨や服の切れ端が出てくる。
この周辺を歩いていても服の切れ端をいくつか見つけた。


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ここが一番酷い場所。


屋根がある場所では若い女性が殺された。
殺される前に裸にさせられ、ときには強姦され、そのあと殺された。



隣にたつのが、有名なキリングツリー

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幼い子どもを殺す場所。
子どもの足を持ち、思いっきりこの木に頭を叩きつけ、殺した。それも母親の目の前で。

泣き叫ぶ母親もここで殺された。


















この2つの場所を訪れ様々なものを目にしたとき、体中から力が抜けるような、不思議な感覚になった。




ここに来た人しか感じられない恐怖、そして心の底から湧き上がる憤り。


今までに感じたことがない感覚だった。








何も罪がないのに突然捕らえられ、見知らぬ所へ収容され、拷問を受ける毎日。


裸にさせられ、目の前で子どもを殺される母親。



すごく恐かっただろうな。

悔しかっただろうな。

 






いまでもあの光景と感覚は覚えてる。
たまにふと思い出すときもある。





それくらいショックだった。













こんなことは二度と起きてはいけない。


破壊からつくり直すという考えは間違ってる。


とてもショックを受けた1日だったけれど、ここに来ることができて本当に良かった。